よしりん先生の
登場です
参加者の多くの人が見ていない
門弟同士で行われている
メーリングリストの中の議論を、
公開の道場で
決着つけさせてもらいました。
「公論」を目指す集まりであるのに、
メーリングリストという
閉ざされたネット空間で行われる
議論の進展が原因で、
内部分裂に陥ることを
避けたかったのです。
メーリングリスト内での
時浦師範代との議論の果てに、
ある一人の門弟が
「ここは教団か小林よしのりは教祖か」
と書いていました。
このセリフ、
やめていく者たちが
必ず吐き捨てる常套句です。
とうんざりしました。
ならば公開の道場で
議論すればいいのです。
それしかないと今回は思い、
その不満分子となった
門弟に突然発言を求め、
議論の決着をつけたわけです。
道場でやろうじゃないかと言うと、
逃げ出す可能性があるので、
突然やりました。
わしや高森師範の意見を
受け入れて、決着を見ました。
その際に、高森氏の解説により、
「民主主義の不全を補う意味での憲法」
という視点が出され、
大変有意義な議論になったと思います。
門弟同士のメーリングリスト内の議論を
「ゴー宣道場」本番の遡上に
乗せるという行為は、
メーリングリストに参加していない
人たちからすれば、白けるというか、
関係ないと思われるかもしれません。
わしとしては、そんなことは
重々承知してることで、
顰蹙買うのも覚悟でやったことです。
聞いていれば
「民主主義の不全を補う意味での憲法」
という視点が得られたことで
有意義だったと思った参加者は
多かったはずです。
ネットやメーリングリスト内で行う議論は、
顔が見えないことと、公共心を失うことと、
プライドが邪魔をすることで、
必ず誤解を含み、喧嘩になっていきます。
少数派となり、
主張が通らない場合は、
「教団か教祖か独裁か全体主義か」
の捨てゼリフです。
これ、誰もが思いつく悪罵です。
パターンに嵌っています。
今後のために言っておきますが、
このセリフを吐いたら即、破門です。
「ゴー宣道場」に
意見の違う人がいてもいいのです。
小沢一郎支持者がいてもいいし、
安倍晋三支持者がいてもいいし、
菅直人支持者がいてもいいのですが、
「公論」を目指すためには、
わしは価値相対主義から
抜け出す必要があると思います。
「公論」の形成は厳しい
「プライド」と「利権」を
捨てなければなりません。
明治維新のときの武士階級のように
「公」につかねばなりません。
論壇を見ても、ネットを見ても、
プライドだらけの現代の日本人の中から、
「公論」を作り上げることが
できるのでしょうか?
議論を避けて、
「この集団は教団だ」
と言った者はおしまいです。
「ゴー宣道場」に参加する
熱心で誠実な人たちを
侮辱したと看做します。
「ゴー宣道場」内に、
原発支持派がいることは知っています。
わしの考えとは違いますが
排除していません。
同意できることも知っています。
若手議員を支那に引率し、
胡錦濤握手会を開いて、
国内では天皇陛下を政治利用し、
騎馬民族説を韓国で唱えた
小沢一郎は嫌いですが、
その支持者も排除しません。
わしも支持するかもしれませんしね。
しかし、何が正しく、
何が間違っているかは、
はっきりさせます。
それは認めてもらわなければ、
「公論」は無理です。
メーリングリストは設営隊募集や、
場外乱闘の募集のために、
大変役に立つのですが、
議論においては
欠陥のある仮想空間です。
ネット内と、公の場では、
違う態度になることしばしばですから、
今回の内輪の議論をあえて
「ゴー宣道場」本番の遡上に
乗せてみました。
バランス感覚を失うのなら、
メーリングリストに
参加するべきではありません。
参加してない人はいますし、
そのように一定の距離を
とる態度も賢いと思います。
門弟にならずに、一回一回、
応募はがきを出して
当選してやってくる道場生もいます。
秘書みなぼんが
「この人は良識あるな」と判断すれば、
毎回当選させたりしています。
わしとしては
会場に収容できる人数の3分の2まで
門弟を増やせと言っています。
まだ門弟は半分くらいです。
新たに更新しなければならないので、
徐々に入れ替わったりしていますが、
まだ3分の2には余裕があります。
まだまだ公論に導くには足らず、
もっと水準を上げたいのです。
昨日の「ゴー宣道場」の
第2部での質疑応答で、
道場生のレベルが
格段に上がったということを
感じました。
笹師範も挙手した人を
指名するときのプレッシャーが
随分減ったと話していました。
保田與重郎やフリードマンの名前が、
知ったかぶりではなく自然に出てくるので、
だったらここまで話していいだろう
というかたちで、議論が深めていけます。
知ったかぶりや見栄で
わざわざそういう知識を
ひけらかす人はすぐわかります。
議論の必要性で
出てきた知識だからいいのです。
師範としても自分の知識を
ひけらかすために
やっているのではありません。
できればその子たちにもわかる
議論がしたいと思います。
今回の内輪の議論で、
どうやら門弟内には「造反願望」を
持っている者もいるらしい
ということがわかりました。
これも人間が集団をつくれば
必ず現れる現象であり、
全然珍しいことではありません。
自分の弱さ・臆病さを直視せずに、
異論を表明した者をこそこそ陰で
応援するという態度は、
以前も見られた現象です。
はっきり言って
「卑怯」 というべきでしょう。
それを思えば、今回、
堂々と小沢一郎支持を表明し、
「一か月ルール破り」の責任を
外務官僚に転嫁した門弟は、
陰湿な卑怯者ではなく、
堂々と異論を表明できる
貴重な存在だと思います。
認める勇気も必要ですよ。
安易に謝罪することは勇気ではなく、
間違いを認めることは勇気です。
「造反願望」を膨らませるくらいなら、
さっさと「ゴー宣道場」を
辞めればいいのです。
これ、当たり前でしょ?
無理矢理入れと
強制したのではないのですから。
造反願望を膨らませるというのは、
「甘え」 でしょう。
父性に対する反抗かもしれません。
どうしても父親にされてしまいます。
わしに対して勝手に父性を感じ、
圧迫感を感じ、コンプレックスを募らせて、
無意味に反抗したいと
思い始めるようですね。
わしはあえて努めなければ
ならないのかもしれません。
まったくくたびれる。
門弟や参加者全体の
レベルの引き上げは、
「公論」を目指すうえで、
絶対必要だと考えています。
必ずしも言葉巧みで、
饒舌な議論ができることが
重要ではありません。
理解力があって、
寡黙だがしっかりものを考えていて、
繊細な神経を持っていて、
「公」を大切にする人たちを
むしろ信頼するかもしれません。
設営隊を積極的に
担ってくれている人たち、
「ゴー宣道場」を警護してくれる
骨法の道場生たちには
そういう人が多いと感じます。
彼らなしには
「ゴー宣道場」はやれない。
彼らがいなくなれば
「ゴー宣道場」はやめます。
これは明言しておきます。
「教団だ」と罵倒するのは、
こういう「公」のために尽くす人たちを
侮辱することになりますから、
破門しかありません。
今回は許しますが、
「ゴー宣道場」の目的を
わかってほしいものです。
「個」は大切ですが、
「私」を捨てられなければ、
「公論」はつくれません。